コージー・パウエル、1996年のインタビュー (まとめ)

03 May 2015  |  Tags: Cozy Powell

2013/9/9から紹介した 「コージー・パウエル、自らのキャリアを語る」 の全体を一つにまとめた。Joe Geesinってロック評論家の個人サイトにある記事で、1996年のインタビューとのこと。

→ Joe Geesin - Freelance Music Journalist | Cozy Powell Interview


ザ・ソーサラーズ (1960年代に在籍していたバンドで、主にドイツで活動していた) は何か録音を残してますか。

  • そこまで遡るか。ドイツでシングルを出してる。ヤング・ラスカルズの「Love Is a Beautiful Thing」のカバーで、無名のレーベルから出して、プレスした数もほんのちょっとだった。1967年か68年のことだ。

  • それが俺のレコード・デビューだったが、本当の意味でシングルって言えるのは、ヤング・ブラッド (ザ・ソーサラーズが名前を変えたバンド) の「Green Light」だな。パイ・スタジオで録音した。ペトゥラ・クラーク (当時のポップ歌手) が隣で録音してたのを憶えてる。ステイタス・クォも使ったことがあるはずだ。俺の最初のスタジオ・セッションで、ジャック・ドーシー・オーケストラの何人かも一緒だった。ブラスとかも入れて、3回めのテイクでうまく行った。バーミンガムから (ロンドンに) 日曜の夜に来て、スタジオの床に寝たが、ちっとも眠れなかった。そして、朝食も抜きで、いきなり録音だよ。

エース・ケフォード (ザ・ソーサラーズの次にバンドを組んだ相手) はドラッグ漬けだったんですか。

  • 何か治療を受けてたが、どこが悪かったのかは知らない。大抵まともなんだが、時々おかしくなってた。ザ・ムーブ (後のエレクトリック・ライト・オーケストラの母体となったバンド) を抜けたばかりで、バーミンガムじゃ大物だった。かっこよかったね。奴と仕事するのは、本当に楽しかったよ。エース・ケフォード・スタンドって名前でショーも何回かやった。

ジェフ・ベックと組んだきっかけは何ですか。

  • 当時ジェフのマネージャーだったピーター・グラント (レッド・ツェッペリンのマネージャーとして有名) に推薦してもらえたんだよ。バーミンガムで「Mothers Club」を経営してたフィル・マイアットって奴が、「ここにはすごいドラマーが二人いる、一人はジョン・ボーナム、もう一人はコージー・パウエルっていうんだ」、って言ってくれてさ。その後のことは、歴史が語ってくれてる。ジョンはジミーやロバートのザ・ニュー・ヤードバーズとギグをやったばかりだった。俺は奴らみんなと仲良かったよ。ジェフがオーディションをやるって教えてくれたんで、車を借りて、ドラムキットを放り込んで、駆けつけた。会場には30人くらいいたかな。そして、俺に決まったんだ。

モータウンのカバー・アルバムはどうなったんですか。

  • 俺の仕事の内で一番知られてないやつから聞いてくるか。テープのコピーを持ってるよ。だが、テスト・プレスすらやらなかった。

  • モータウンのヒット曲を録音して、基本はインストゥルメンタルのアルバムを作ろうってんで、デトロイトのモータウンまで行った。あそこの大勢のセッション・ミュージシャンに手伝ってもらうためにな。まだジェフと組んだばかりで、1969年だったかな。ジェフは、まずドラマーからだ、ってことでオーディションで俺を見つけて、それで次にモータウンに一緒に行ったわけだ。「Reach Out I'll Be There」とか「Losing You」とか録音したな。結局、7トラックか8トラックくらい作った。

  • ジェフはリードは弾かずに、リズムギターをやった。だが、何か気に入らない話でもあったのか、プロデューサーのミッキー・モストとうまく行かなかったのか、何だったか判らないが、そのままお蔵入りになっちまった。

それがミッキー・モストに会った最初ですか。

  • そうだ。

ドノヴァン (当時のシンガー・ソングライター) とも仕事してますね。

  • ミッキー・モストに言われたんだ。「私はミュージシャンを大勢プールしてる。きみもセッション・ミュージシャンとして、私のために働いてくれないか」。もう憶えきれないくらい沢山、ミッキーの仕事をしたよ。ドノヴァンとの仕事もそういう一つだ。

チック・チャーチル (テン・イヤーズ・アフターのキーボード奏者) のアルバムで、バーニー・マースデンと知り合ったんですか。

  • たしか、そうだ。奴は当時ワイルド・ターキーにいた。そして、ベドラムで一緒にやって、俺のバンド、ハマーに参加してもらった。

  • 「Dance with the Devil」は、CCS (Collective Consciousness Societyってバンド) のセッションをやってた時に、ミッキーが「ドラムスのシングル盤を作ってみないか」って言ってきて、リフのざっくりしたアイデアをくれた。それで20分くらい、ちょっといじくってみて、で、すっかり忘れてたんだよ。そしたら6週間後に、バックボーカルなんかも付けて、トラックを完成させたって言うんだ。放っといたら、1ヶ月後にチャートに上がってきてるじゃないか (英国で最高3位)。「Top of the Pops」に出演してくれなんて言われるし、大変なことになっちまった。

  • そうやってインストゥルメンタルのシングル2枚がいい線いってたら、ミッキーが次はボーカル入りのバンドにしようって言い出して、それで、コージー・パウエルズ・ハマーになったんだ。なんだかちょっと居心地が悪かったな。ドラマーとして後ろにいたのが、いきなり脚光を浴びて、一家の主だよ。楽しかったけど、注目の的にはなりたくなかった。自分のバンドだなんてね。そんなビッグスターになるのは、性に合わない。バンドで一緒にやるなら、みんな同じ扱いを受けるべきだし、同じ稼ぎじゃないとな。

ストレンジ・ブリューは短命に終わりましたね。

  • すごいアイデアだったんだけど、うまく行かなかった。ハンブル・パイのグレッグ・リドリー、クレム・クレムソン、それに俺の3ピースで、クリームを作ろうってしたわけだ。3人ともクリームの音楽が大好きだったんだ。グレッグもクレムも、楽器も弾けるし歌えるし。で、さあ始めるぞってしてたら、ジョン・ハイズマン (同世代のドラマー) がクレムを高給で (コラシアムに) 連れてっちまった。ジョンを憎んだよ。俺の夢を潰しやがって。その後は仲直りして、今じゃ良い友達だけどな。

  • もう何もかもうんざりして、1年くらい休んだほうがよさそうだって思った。ちっと頭を冷やさないとな。それで、バイク・レースに出たりしてたわけだ。

リッチー・ブラックモアは、オーディションでドラマーを必死に探してたそうですが。

  • 俺は77番か80番か、それくらいだった。ドラマーにはものすごく気難しい。こんな話もある。ある男がオーディションに来て、ドラム・キットをセットして、堂に入った態度で、キットの脇でスーツケースを開けて、真っ黒な衣装に着替えて、黒いグローブをはめて、準備できましたって言った。そうしたら、リッチーが「そいつをつまみ出せ」。可哀想に、そいつは音すら出させてもらえなかったんだ。

  • オーディションのことはよく憶えてる。水曜の夜にツアー・マネージャーから電話をもらって、木曜の朝にはロサンゼルスに飛んだ。飛行機を降りたら、ホテルにチェックインして、そのままオーディションだ。時間もないし、何もないし、見たこともないキットだった。100人くらいいたかな。みんなが俺を、大枚をはたいてたった今イギリスから飛んできたゴールデン・ボーイって感じで、見ていた。最初にリッチーが言ったのが、「シャッフルはやれるか」。こんなんでいいかよってんで、20分くらい叩いてたら、「お前に決まりだ」。

「Rainbow Rising」はロックの古典と言われてますね。

  • 俺が参加した内でベストなアルバムの1枚だな。2・3曲は、ヘヴィ・ロックってものが出来てきたあの当時の総まとめって感じで、本当に突出してる。ドラムスもとにかくヘヴィだ。それ以来、あのアルバムでやった全てを再現するのに必死だね。俺の誇りだ。あれはミュンヘンで、すごく短い時間で作った。どの曲もほとんど2・3テイクだ。「A Light in the Black」なんか、1テイクだよ。もういっぺんやってくれって言われても、無理だな。編集に取りかかる前に、全て仕上がった。どうやるかしっかり決めて、リハーサルに入ってった。リッチーに言ったよ。「俺がちゃんとやるから、ギターのことは心配するな。後から載せてもいいんだし。トラックをちゃんと作るのが先だ」。

今でもトニー・キャレイとかとは連絡を取ってますか。

  • いや。トニーを最後に見たのは、俺たちが閉じ込めようとしたシャトーから、奴が出て行く時だ。可哀想に、奴はレインボーのダークサイドだった。リッチーはバンドに気にくわない奴がいると、とことんいじめ抜く。そして、とにかくキーボード奏者を嫌ってた。トニーはそうとうひどい目にあってたよ。「L.A. Connection」って曲を聴いてみるといい。あれの歌詞は、録音に使ってたシャトーから奴が逃げ出すところを歌ったものだ。正直に言って、俺たちはトニーの人生をボロボロにしちまった。キーボード奏者としてはそれなりに優秀だったんだけどな。ちょっと生意気だったんだよ。リッチーの前でそんな態度でいてみろよ。一発で火あぶりだ。

レインボーでの最後のライブは、1980年のドニントンですね (「Monsters of Rock」フェスティバルのこと)。

  • あの時、俺はジューダス・プリーストのPA機材を燃やしちまったんだ。ゼリグナイト (ダイナマイトの一種) を使って爆発のテストをしてたら、やっちまった。グレアム (グラハム)・ボネットは「Stargazer」の歌詞を忘れちまってるしさ。どの曲の歌詞もほとんど憶えてなくて、まぁ、たいがい、そんなだったんだが。

彼がMSGをクビになったのも、そのせいでしょうか。

  • その手の話は山ほどある。リーズ大学 (ザ・フーのライブ・アルバムで有名) でライブをやった時、奴は聴衆に向かって、「お前らがマイケル・シェンカーだと思って聴いてるのは、本当はこれだ」ってアナウンスして、機材の陰でギターを弾いてるクルーに照明を当てさせた。そして、ステージ上で自分のモノを出して、小便したんだとさ。やってくれるぜ!

  • だけど、それも伝説だ。どこまで本当かは知らない。

ソロアルバムを作ったきっかけは何ですか。

  • 金だ。いや、嘘だよ。その頃、レインボーを辞めようとしてたのと、当時のマネージャーが日本と太いパイプを持ってて、日本のファンがそういうアイデアに引き込んでくれたんだ。彼らはドラマーが大好きだ。で、あっちのポリドールが、ソロアルバムを作って欲しいって言ってきた。だったら、やろうじゃないか。こっちじゃアリオラ・レーベルが出してくれたけど、そもそもの話は日本からだ。それで、仲間みんなに手伝ってもらった。ゲイリー・ムーア、ジャック・ブルース、ドン・エイリーとかね。本当に楽しかったよ。そんなに金もかからなかったし。その売上げで、俺はフェラーリを買った。大した報奨金になったわけだ。

その頃の他のプロジェクトとは、ずいぶん違ってましたよね。

  • ただヘヴィ・ロックをやるつもりはなかった。「Over the Top」じゃ、俺がどれだけのことが出来るか、見せたかったんだ。「1812」はクラシックだし、ジャズっぽいのも何曲か、ブルースもある。「The Loner」はジェフ・ベックに捧げた曲だ。この曲はジェフに弾いて欲しかったんだが、ツアーか何かで都合が悪くて、代わりにゲイリー・ムーア、悪くない代役だろ、それとクレム・クレムソンに弾いてもらった。

「Tilt」(ソロの2作め) も素晴らしいミュージシャンが揃ってますよね。ジャック・ブルースとジェフ・ベックの共演とか。

  • あのセッションはな、テープ録音のオペレーターが金をけちろうとして、つぎはぎだらけのテープを持ち込んできたんだ。それでテイクを録音してたら、半分くらいのところにちょっとリーダーテープ (録音できない) が混じってた。高い金を出してミュージシャンたちに集まってもらったのに、その日の最後に聞き返したら、そこの数秒間だけ無音になっちまってる。がっかりだ。そいつには、次には新しいテープリールを使わせたよ。

グレアム・ボネットのソロアルバム「Line Up」にも、同じように華麗なミュージシャンが集まってますね (コージー・パウエルも参加している)。

  • そうだったかな。ジョン・ロード、フランシス・ロッシ、ミッキー・ムーディ。当時のソロアルバムは、お互い入り混じりながら作ってたんだ。素晴らしかった。残念ながら、今じゃ無理だよな。

次にマイケル・シェンカー・グループに加わりましたね。

  • ファースト・アルバムはサイモン・フィリップスが叩いたんで、彼らはサイモンと同じことができるドラマーを探してた。それである程度は絞り込まれてたってことだ。

  • 「Live at the Budokan」(「One Night at Budokan」のこと) のアルバムは良い出来だが、あの時は食中毒だったんだよ。日本に文字通り飛んだばっかりだったが、その時の機内食で、クルーやバンドの半分くらいが気分悪くなった。その中でも俺は最悪だった。会場には12,500人の観客、モービル録音設備もOK、司会が「レディース・アンド・ジェントルメン」なんて言い始めてる。なのに、俺はステージ裏でまだ吐いてた。死にそうな気分でステージに上がって、それで、なんであんな良いアルバムになったんだ。なんで俺はあんなことができたんだ。

ホワイトスネイクはオーディション無しで参加した唯一のバンドだって聞いてますが。

  • そうだろうと思う。デイヴィッド・カヴァデイルとはお互いによく知ってて、オーディションは要らなかったんだ。イアン・ペイスが抜けたからだが、ディープ・パープルに移ったんだっけ。

いえ、ゲイリー・ムーア・バンドです。

  • そうだったか。

  • デイヴィッドと俺は、「Tilt」に入ってる「The Rattler」とか、一緒に何曲も作ったりもしたよ。そして、ホワイトスネイクの「Saints & Sinners」ツアーに同行した。ミッキー・ムーディ、コリン・ホジキンスン、ジョン・ロード、メル・ギャレイと一緒にな。

  • 「Slide It In」じゃ、コリンがベースを弾いてたが、途中でニール・マーレイが入ってきて、トラックの追加や差し替えをした。ジョン・サイクスも加入して、そしてツアーもやった。あの頃が音楽的にはホワイトスネイクの最盛期だな。1987年にはもっと稼いだが、「Still of the Night」なんか、俺は好きだけど、もろツェッペリンのパクリだって言われてるし。「Slide It In」が、ホワイトスネイクって言っていい最後のアルバムだ。その後は、セッション・ミュージシャンを集めてるだけで、もうホワイトスネイクっては言えない。俺たちみんなと同じように、ジョン・サイクスもクビになっちまったし。

  • 俺は契約に合意できなかったんで離れたが、本当に残念だった。握手 (合意) してもよかったんだが、オファーを受け入れなかった。もしも受け入れてれば、大金が転がり込んできてただろうよ。あのアルバム (1987年の「Whitesnake」のこと) は1700万枚も売れたんだから。

幾つものバンドを渡り歩いてきてますよね。

  • レインポーは5年で辞めたが、そういう成り行きだったんだ。もうリッチーがバンドを信じてるとは思えなくなったんだよ。俺が辞めた後で奴らは成功したけれども、以前ならやれたような演奏をリッチーは全くやらなくなった。俺は変化が必要だと思ったんだ。

  • マイケル・シェンカー・グループは、ドラッグの問題があんまりひどかったんで辞めた。俺も引っ張り込まれてバカみたいになるし、マネージメント側はバンドをめちゃくちゃにするし、俺たちは互いに殺し合ってたみたいなもんだ。ホワイトスネイクに移って、ずいぶんマシになったよ。ホワイトスネイクは契約の問題で辞めた。

  • ELP (エマーソン・レイク&パウエル) がポシャったのは、仕方ないな。レイクとエマーソンは、もう何百万回となく喧嘩してて、それなのに、アルバム2枚とツアーをやるって契約しちまったんだ。アルバム2枚の契約金を前払いで受け取ってんのに、575回めの口喧嘩で、もう一緒には仕事できないなんてことになって、その二人の間で俺は、契約したばっかりなのになー、とか考えてたわけだ。

  • ツアーは最高だったよ。俺の音楽人生の中で最大のチャレンジだったって言っていい。俺にとっては本当に楽しかった。だが、グレッグとキースのせいで、うまく行かなかったねぇ。彼らはその後もまた組んだりしてるが、我慢ならない相手と、なんで一緒に仕事できるんだ。もちろん、大金を積まれたからだ。二人とも金に困ってたんで、受けないわけにはいかなかったんだ。

  • キースは偉大なミュージシャンで、俺自身も少しばかり刺激を受けた。グレッグも偉大なミュージシャンで、素晴らしいヴォーカリストだ。だが、ある意味、自分自身が最悪の敵、みたいなところがある。

  • あんなミュージシャンたちは見たくない。どれだけ悲しくなるか。さっさとくたばってくれ。

フォースフィールドのきっかけは何だったんですか。

  • 大したアルバムだろ。レイ・フェンウィックが、俺の名前を使わせてくれないかって、電話してきたんだ。後になって思うと、コージー・パウエルズ・フォースフィールドなんて宣伝されてたりするんで、もっと俺がコントロールすべきだったんだろうな。

  • 一緒にやったのは、グレアム・ボネットだろ、ヤン・アッカーマンだろ。ヤンのことは、フォーカス (オランダのプログレッシブ・ロック・バンド。最盛期は1970年代) の頃から、ずっと憧れてたんだ。レイが、ヤンも加わるって言ってきて、すげえやって思った。一緒にやるのは結局はちょっと大変だったんだが、何曲か素晴らしいトラックを演奏できた。彼は天才だ。

  • トニー・マーティンは、ブラック・サバスのアルバム「Headless Cross」の時に会ってた。それで、俺からフォースフィールドで歌ってくれって頼んだんだ。

シンデレラはどうだったんですか。

  • 唐突にいきなり電話を受けたんだよ。以前はジェントル・ジャイアントにいて、今はアメリカでレコード会社をやってるって奴からだ (デレク・シャルマンのこと)。問題が山積みなんです、アンディ・ジョンズがプロデュースしてくれることになりました、って言ってさ。別に悪夢みたいな仕事も引き受けてたんだが、ま、とにかく奴が言うには、ドラマーを18人も試したんです、あなたならやれるでしょう、アルバムを手伝ってくれませんか、って。

  • それがシンデレラだった。奴らのことはよく知らなかったが、何曲か聴かせてもらって、それでOKした。フィラデルフィアまで行って、録音をやり始めて、最初の何日かはうまく行った。それが、アンディは大量のビールやドラッグを持ってこさせて、あげくに (つまり、へろへろな状態で)、俺に演奏のことをあれこれ指示し始めるんだ。「待ってくれよ。ドラマーは俺だろ」、そんな感じだ。結局は実質的にアルバム全体で演奏したが、何だか歯を抜かれるみたいに、キツかった。もう二度とごめんだね。

  • 同じ年 (1988年) にドン・エイリーの「K2」も手伝った。奴はゲイリー・ムーアと仕事してたし、二人には俺自身のプロジェクトを手伝ってもらったし、三人お互いに色んなセッションで一緒にやってたんだ。ドンはサイモン・フィリップスにも叩いて欲しがってたな。

  • 一方で、ゲイリー・ムーアは俺に、次のアルバム「After the War」を手伝ってくれって言ってきた。奴はツアーの契約もしてた。奴のバンドには有名なドラマーがいたし (イアン・ペイスのこと)、ツアーのリハーサルじゃ泣きそうになったよ。ドラム・マシンに合わせてくれとか、昔のアルバムの演奏に一音一音すべて合わせてくれとか言ってくるんだ。2時間のライブのためには十分すぎる感じだった。

  • 5週間のリハーサルの後、プロダクション・リハーサルのセッティングをしたが、俺のドラムスは第三次世界大戦みたいな音だし (意味不明)、ゲイリーはギターの音が気に入らないし、その夜に突然、俺はツアーから外れることになった。急きょクリス・スレイドが呼ばれて、奴は3日間でツアーに間に合わせたんだ。ジョン・ハイズマンに地獄に連れてかれて以来 (コラシアムIIのこと)、ゲイリーはドラマーには一言あるようになったんだろうな。

ブラック・サバスに在籍していた間に、コミック・リリーフのシングルにも参加してますよね。

  • 何となく憶えてるよ。ブライアン・メイ、ニール・マーレイ、トニー・アイオミ、それにローワン・アトキンソン (ミスター・ビーンの俳優) とやった。すごく楽しかった。ブラック・サバスも楽しかったし、良い日々だったな。バンドにとっても、良い時代だったと思う。誰もが本当にうまくいってた。文句なしだ。そこからだんだん落ち目になってったんだが。

ブライアン・メイはブラック・サバスの「Headless Cross」にもツアーにも参加してますよね。それが彼に会った最初ですか。

  • 一緒に演奏したって意味なら、その通りだ。彼のことは、ジェフ・ベック・グループの頃から知ってる。マーキー (ロンドンの老舗のクラブ) によく見にきてくれてた。クイーンの何曲かは、ジェフ・ベックからパクってるんだ。20年後に、仲間ってことで教えてくれたよ。

ブライアンとジョン・ディーコンは、あなたのソロアルバム「Drums Are Back」で演奏してますよね。その中の「Ride to Win」は結局、ブライアンの「Resurrection」になってますが。

  • そう、その通り。あれはジェイミー・ペイジが書いた。すごく良いギタリストだ。彼が俺のアルバム用に持ってきて、それをブライアンと俺が「Resurrection」に発展させたんだ。あのアルバムは成功したし、すごく楽しかった。ブライアンは仕事しやすい人間だね。一緒に18ヶ月ツアーした。

その間にブラック・サバスのアルバム、もう2枚に参加してますが、呼び戻されたんですか。

  • あんまりうまく行かなかったな。おれは馬の事故で怪我して、バンドをあっさりクビになってた。ロニー・ジェイムズ・ディオが戻ってきたが、俺とはやりたがらなかったんだ。レインボーの時に、奴のソロアルバムへの参加を断ったからな。それで怒ってるんだろう。奴はレインボーをクビになった後、リッチーを無視して、俺に頼んできた。それ以来、俺を心底から嫌ってる。

  • だが、とにかく俺は呼び戻されたんで、「Headless Cross」の時みたいな良い雰囲気がまた作れないか、やってみた。ダメだったね。理由は判らない。みんな変わったってことかもしれない。

  • ちょっとうまく行かないことがあったら、それまでヘヴィロックをやったことのないプロデューサーが連れてこられて、そいつの考えってのが、良くも悪くもドラムスの音を左右するんで、もう台無しだった。サウンドも演奏も、全然うれしくない。「Forbidden」は勧められないよ。最高の出来だなんて、心にもないことは言えない。なので、俺はプロモーション・ツアーからは手を引いた。そんな気分になれなかったら、関わらないのが一番だ。

  • アメリカのツアーは、どうしようもなく悲惨だった。俺が関わった内で最悪のツアーだったって言っていい。会場は全然埋まらない。エージェントは最後まで動いてくれない。期待したような観客は集まらない。レコード会社はバックアップしてくれない。本当に大変だった。俺自身、ちょっと個人的な問題をかかえてて、ツアーを外れないといけなかった。そのアメリカ・ツアーは8ヶ月みっちりだったんで、マネージャーに、俺は外れる、代わりのドラマーを探してくれ、って言った。

ブライアン・メイとは「Music of Jimi Hendrix」(トリビュート・アルバム「In from the Storm」のこと) でも共演してますね。

  • あれは1回限りで、1曲だけやった。ブライアンに頼まれたからだが、これもすごく楽しかった。

グレン・ティプトンとレコーディングしたって聞きましたが。

  • グレンは曲を沢山書いてる。ソロアルバムを完成させたところだが、実際にはアルバム2枚分くらい作ってるんだ。最初のがこの春に出る。それには俺は2トラックだけ参加したが、実際にはもっと沢山手伝った。いずれリリースするために、取っといてあるんじゃないかな。これも楽しかった。将来また一緒にやるかも知れない。

「The Drums Are Back」には厳しいレビューもあるようですが。

  • 色んなセッションでアルバム60〜70枚、シングル150枚以上に関わってたら、中には評価が今一つなのもあるだろう。そんな評価は誰だって見たくないよ。こっちは最高のアルバムを作るつもりで、とことん頑張るし、ベストなミュージシャンを集めるし、ベストを尽くすわけだ。あのアルバムには大変な努力を注ぎ込んだ。スティーヴ・ルカサー、ジョン・ロード、ビリー・シーン、ブライアン・メイ、錚々たるミュージシャンたちだ。それがレビューで、「ゴミだ。退屈で古くさい屁みたいなもんだ」なんて言われてみろ。俺が組んだ内で最高のミュージシャンたちのどこが、退屈で古くさい屁なんだ。あんなのはレビューじゃない。ただのたわ言だ。不愉快だよな。俺が歳とりすぎてるとか、音がデカすぎるとか、前時代の遺物だとか、ドラムの数が多すぎるとか、そんなのはレビューじゃない。そういう奴には、表ぇ出ろよ、ケリつけようぜ、そう言ってやりたい。あれを気に入ってくれてる人たちに、申し訳ない。

  • アルバムを20枚作って、その内の1枚でも上出来なら、俺は良い仕事をしたって言える。これまでのキャリアの中で、本当に上出来のアルバムが、ちょっとばかりある。「The Drums Are Back」は、その中には入らないかも知れない。でも、すごく良い曲もあるだろ。素晴らしいミュージシャンたちが参加してくれて、光栄に思ってる。一部のマスコミがけなすのは、無名のミュージシャンも使って、ブレークさせたからだろう。ジェリー・レインなんか、大したボーカリストだ。あのアルバムは、あちこちそうとう頑張ったと思ってた。今聴き直してみると、もっとうまくやれたかも、とか、もっとうまくプロデュースできたかも、とか思う。俺はソロアルバムじゃ、他のミュージシャンのベストを引き出すために、自分を抑えがちなのかも知れない。スティーヴ・ルカサーやビリー・シーンの演奏には、鳥肌が立った。スティーヴは俺のアイドルの一人だが、あのアルバムじゃ極めつけをやってくれた。これ以上に光栄なことはない。

今後の予定はどうなってますか。

  • 今は何の予定もないんだ。おかしいだろ。今年 (1996年) は、いつもと違う年にしようと思って、休みをとった。またバイクのレース? どうだろうね。エキサイティングなことをやりたいんだ。それが何か、今は判らない。ミュージシャンの人生ってのは、先が読めないよな。

誰と仕事したいですか。

  • 俺を呼んでくれるなら、誰とでも (笑)。ソロアルバムをもう1枚、無名の奴らと作ったよ。ジョン・ウェスト、マイク・ハウスウェル、それにニール・マーレイがベース、ほぼ出来上がってる。日本からオファーがあって、作れたんだ。その内に出せるかも知れないし、出ないかも知れない。

  • グレン・ティプトンやブライアン・メイとも、また仕事したいね。いずれにしても、この何ヶ月かの間にどうなるかによる。別にシャットアウトしてるわけじゃなくて、オフが必要だっただけだ。昔のベドラムやハマーの頃だって、1年くらい休んだしな。この30年ずっと休みなく、演奏やツアーを続けてきてる。たまには休むことも必要だよ。良さそうな話が持ち上がれば、動き出すことになる。

オファーがあればってことですか。

  • そう、ドラマーなら当り前だ。個人的に誰かとうまく行ってないってことは全くない。あ、ロニー・ディオ以外はな。それ以外は、リッチー・ブラックモアともディヴィッド・カヴァデイルとも、すごく楽しく過ごしてきた。また何か転機が来るんじゃないかな。俺は楽天家なんだ。状況はいつでも良くできると思ってる。先が判らないのは、ある意味、良いことじゃないか。この業界、先が読めすぎることもあるからな。



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