テリー・ボジオ、2000年のインタビュー (まとめ)
2012/5/11の 「テリー・ボジオ、エイドリアン・ブリューを語る」 から一連の記事で紹介したが、順序もめちゃくちゃだったしあちこち省略してたので、改めて全体を再構成した。元は「drumstuff.com」に2000年頃に載ったインタビューが、「DRUM! Magazine」サイトに掲載されたもの。
→ DRUM! Magazine | Terry Bozzio: An Interview from the Vault, Part I
→ DRUM! Magazine | Terry Bozzio: An Interview from the Vault, Part II
チャド・ワッカーマンとやってるクリニックのことを聞きたいんですが。
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ずっと自分のクリニックのツアーをやってきてて、色々と考えてたんだよ。ディーラーの立場、ドラムやシンバルのメーカーの立場、ミュージシャンとしての自分の立場、ツアーの最中に起きる全てのこと、クリニックでの演奏、そういうのを見てると、もう問題だらけなんだ。例えばドラム・メーカーには、うまくお膳立てできるような人がいない。何べん言っても、うまくまとめられなくて、誰もが割を食ったりする。
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それで、俺のほうがよっぽど経験を積んでるし、うまくやれそうな気がしてきたんだ。DW (ボジオがエンドースしてるドラム・メーカー) にバックアップしてもらってね。チャドもザッパ組出身だし、DWを使ってるし、一緒に組もうって思いついて、そして、アメリカ南東部をツアーで回った。すごく楽しかったよ。みんなも喜んでくれた。
クリニックの構成や準備はどうしてるんですか。
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誰かと一緒にやりたいってなったら、いつも成り行きに任せるんだ。自分の音楽的な感性や知識を総動員する。そうやって演奏している内に、ただ座って考えてるだけの時なんかとは全く違う、すごいアイデアが湧き上がってきたりする。
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お互いそうだって判ってるから、どんなふうにでもなる。時には15分以上も延々とジャムったりして、その中から面白いものが出てくる。オースティン (アメリカ南部、テキサス州の都市、当時のボジオの住所) でのギグの前日には、それぞれで「The Black Page」を演奏して、それを合わせたりしてたよ。
チャドの演奏をどう思いましたか。
- 今回はソロを幾つも用意してきてたな。大きな飛躍だ。録音に合わせて叩いたりしなくていい。俺にとっても、やりがいがあった。例えば、7拍子で叩きながら、その上に半分の速さのメロディを載せる。聴くほうは、何拍子か判るまで、錯覚で混乱したまんまなんだ。とんでもないパターンを持ってきてたよ。
彼をドラマーとしてどう思いますか。
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本当に深い。俺なんかより、はるかに難しい音楽をザッパとやってた。「Mo 'N Herb's Vacation」に比べたら、「The Black Page」なんか初心者向けだ。技術が並外れてるのに、それでいてクリーンだし、よくコントロールされてる。すごい技術の持ち主って、往々にして機械みたいになりがちだけど、チャドは感性や音楽性も素晴らしい。
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ザッパからホールズワースまで、共演した誰とも、信じがたい音楽を作ってきてる。もちろん自身のソロもだ。曲作りも円熟してきてる。彼のCD、「Scream」を聴けば、メロディやハーモニーの深さが判るだろう。ドラマーが曲を作ると、音楽としては今一つなモチーフを使ったりしがちだ。チャドは本当に美しいアルバムを作る。ただの「俺だって曲が作れるんだぜ」レベルじゃなくて、心に響く。
トニー・レヴィン、スティーヴ・スティーヴンスと組んだ2枚め、「Situation Dangerous」をリリースしましたね。前作よりも時間をかけたようですが。
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1週間くらいリハーサルして10日くらいスタジオ入りした。だから、(4日間で作った1枚め、「Black Light Syndrome」より) ずっと構成が練れたし、一貫性がある。1枚めは即興の「録って出し」、事前のアイデア何も無しのマジックが強みだったんで、この2枚めは、ちょうど対になってるって言ってもいい。ただのセッションじゃなくて、色んなピースから作っていったんで、俺にとってはちょっと難しかった。
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うまく統一感が出せた。1枚めじゃ、スティーヴは、それまでそういう作りかたをしたことがなかったんで、難しい仕事だったと思う。なので、今回は彼がやり易いようにしてみた。だいたいどの曲も、基本は彼のものなんで、自分がやりたいようにやるより、彼のアイデアに合わせるほうを優先したんだ。スティーヴが事前に考えてて持ち込んだアイデアもあるし、3人でやってる内から出てきたアイデアもある。
この中の「Crash」は、ジェフ・ベックの「Guitar Shop」に入ってる「Sling Shot」を思わせますね。
- あれはスティーヴが持ってきた。テンションの高いパンクだ。ブリッジの5拍子はトニーと俺で作った。アルバム全体の感触は、悲劇、暗いフィルム・ノワール (虚無的な雰囲気の犯罪映画)、怪しいモノクロのサイエンス・フィクション、そんなところだろうね。
スティーヴは未知数だったと思いますが。
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音楽的にはすごく深いものを持ってる。1980年代ポップの世界で仕事してきてたけど、こういう音楽がやれるかは判らなかったんだ。だが、おそろしく高いレベルのギタリストだよ。ほとんど知られてないけど。実に上手いフラメンコ・ギタリストでもある。彼が演奏家として認知されるように持ってけたのは嬉しいね。
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俺自身は、色んな音楽を聴いてきてて、エスニックなのにも興味があったけど、フラメンコはTVで見たことがあるくらいだった。だが、心を動かされたし、もちろんドラミングにも影響してる。オランダでパーカッション・フェスティバルがあった時に、スペインのセヴィリアから来たフラメンコ・ダンサーのバックを務めたことがある。「Black Light Syndrome」の時に「Duende」って曲を、全くの即興で一緒に作れたのは、本当に驚いた。お互いの影響だと思う。
スティーブとはどのように出会ったんですか。
- DWのイベントで俺を見て、ソロを気に入ってくれたんだそうだ、そういうのが大切なんだろうと思う。その後、彼の家で会った時に、何曲か演奏してくれた。彼のソロ・アルバムとかが一緒に作れたら楽しいだろうな、と思ったんだ。
「Tziganne」では、フラメンコのギターフレーズをドラムスで奏でてますね。
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4つのピッコロタムと4つのショートスタックタムを、スネアや普通のタムと一緒に使った。これでピアノでいう白鍵のオクターブになる。他の音程のドラムも組み合わせて、色んなスケールが作れる。ここ1〜2年はオスティナートよりも、そいつらを使ったメロディやハーモニーのほうに力を入れてるんだ。色々と考えてると、本当に面白い。ドラムスでキーボードを演奏してるみたいなもんだ。
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5年くらい前からピッコロタムを使うようになった。最初は普通にパラディドルとかをやるだけだったが、考えたんだよ。こいつを音階の法則から捉えるとどうなるんだろ。俺は何を付け加えられるだろってね。次の段階として、全てのペンタトニック・スケールを一通りやってみた。ジャズで出てくる好きなコードとかもだ。そして、色んなヴォイシングやインヴァージョンなんかも試してみた。
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ストラヴィンスキーの本を読んでたら、ヴィブラフォンの対位法的な可能性に興味があったそうで、まだ十分には活用されてないって言ってる。ゲイリー・バートンが4本マレットを使う何年も前にだ。それで、俺は考えたんだ。4つの音を一度には出せないけど、2つなら出せる。だから、別々の単音メロディ2つを奏でるか、2つのタムでローリングしてサスティンでハーモニーを奏でるか。フーガみたいにね。
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俺はいつもこんな喩えを使う。同じ量のカフェインを取るのに、アメリカン・コーヒーをがぶがぶ飲むか、イタリアン・エスプレッソをちょっと飲むか。詰まらないドラムスの教則本なんかを山ほど読むより、ドラムスの幾つかのエッセンスを本当に極めるほうが、よほど無限の可能性が開けてくるんだ。
理論はどうやって身につけたんですか。
- カリフォルニアのマリン・カレッジで2年半勉強した。すごく良い音楽部門を持ってるんだ。俺は「優 (AA)」で卒業した。作曲とかは独学だ。
ザ・ロンリー・ベアーズのことを教えて下さい。
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「Guitar Shop」でジェフ・ベック、トニー・ハイマスと組んだが、それぞれ全く違ってた。ジェフはロックスターだし、抜群のユーモアセンスだし、ある面じゃすごく相性がよかった。だけど、他の面じゃ正反対だった。音楽のルーツとかね。俺はクラシックの出だから。トニーはピアニストとしても作曲家としても、途方もなく尊敬してる。毎朝ドビュッシーのプレリュードを弾いてるなんて言ってた。沢山のことを喋りあったよ。で、思ったんだ。俺はドラムスって楽器でそこそこやってきたけど、キーボードやヴァイオリンに比べたら、まだまだ楽器の限界を極めたっては言えないよなって。それで、練習をやり直して、オスティナートとかあれこれ始めてみたんだ。
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「Guitar Shop」を作った後、1990年代の初めだな、ある日トニーが電話してきて、ヨーロッパでギグをやろうとしてんだけどドラマーの都合が悪くなった、って言うんだ。それで、代わりに叩いた。そのメンバーがザ・ロンリー・ベアーズになった。管楽器と弦楽器とギターと、それにネイティヴ・アメリカンのミュージシャン達だ。パリの安アパートに住んで、2年くらいの間に4枚のアルバムを作った。金にはならなかったが、アートだからね。1枚は完全な即興で、なんだか奥深さの極めつけみたいになったよ。だいたいトニーが曲を作って、俺がアレンジやプロデュースをやった。自信作だ。
ザ・ナック (「My Sharona」のヒットで知られている) と組んだのは、どういういきさつですか (1998年頃のこと)。
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最初はただのセッションだった。(リーダーの) ダグ・フィーガーが連絡してきて、本当にいい奴で、一緒にやれるかな、金はちょっとしかないけど、って言うんだ。で、時間があったんで、やってみることにした。アルバム作りは楽しかったよ。笑ってばかりでね。ちっとも難しい音楽じゃないんで、どれも1テイクで録音してった。俺の経歴にハクが付くわけじゃなかったが、ザ・ビートルズもどきのパフォーマーとしての奴らが気に入った。
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そして、ツアーにも同行することになった。ロサンゼルスに着いたら、何もお膳立てが出来てないじゃないか。最悪のツアーになった。昼間バンに乗って10時間走っては、ライブをやって安モーテルに転がり込む。なので、ダグに言った。「何はやれて何はやれないか、判るだろ。こんなのは無理なんだよ。誰かがくたばるか、燃え尽きちまうぜ」。そうしたら、契約金がどうのこうのとか、ぐちゃぐちゃ言い出したんで、「レコード会社にかけあって、シングルを出すとか、オンエアしてもらうとか、TVに出させてもらうとか、もうちょっとはマシなやりかたがあるだろ」。奴はそれ以上は聞く耳を持たなかった。なんだか意固地になってた。それで続けていったら、2週間後に奴は声が出なくなる、俺は体調を崩す、別のヨーロッパ・ツアーも迫ってくる。俺たちは最初からどこか「幻の国」にはまり込んでたんだよ。
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言っちゃ悪いが、会場によっては、何ヶ月か前に自分のクリニックをやった時には、400人が集まってくれた。それが、このツアーじゃ25人とか75人とかだ。誰もプロモートしてない。レコード会社のRhinoはリイシュー専門のレーベルで、バンドをプロモートするやりかたを知らない。やるって口で言うだけで、何もやれないんだ。
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ダグと俺の間は、どんどん険悪になってった。俺にはどうしようもなかった。不愉快だったが、自分の身体と精神の健康のほうが大切だからね。そういうことだったんだ。しこりは残ってない。あの時は運が悪かったってことなんだろうな。うまく行けば、楽しく金が稼げてたのかも知れないけど。
ザッパ・バンドの仲間とは、どうですか。エイドリアン・ブリューとは、何か因縁があるそうですね。
- キング・クリムゾンの周辺であれこれ画策しては、彼を別プロジェクトとかに引き込もうとしてるんだが、うまく行ってないんだよ。
ブリューはザッパ・バンドで何だか疎外感を味わってたと聞きましたが。
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彼がザッパ・バンドに加わった頃、俺は偏見に凝り固まってて、アメリカのジャズ、ロック、フュージョンしか音楽じゃないと思ってた。ウェザー・リポート、マイルス、マハヴィシュヌ、チック・コリアとかね。若くて、了見がとても狭かったんだ。俺はザッパ・バンドじゃもうベテランだし「The Black Page」も演奏したし、そんなふうにちょっと自惚れてたところに、彼が入ってきた。1930年代のディック・トレーシーみたいな身なりで、かっこよかったよ。すごいギタリストなのは判ってた。音も面白かったし、歌えたし。だが、俺はナポレオン・マーフィ・ブロックみたいなショーマンになって欲しかったんで、彼をそそのかして陸軍婦人部隊の制服を着せたりしてた。
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当時のバンドは、鬼の読譜力のトミー・マーズ、ピーター・ウルフ、パトリック・オハーン、みんなジャズ屋だ。それに、パーカッションのエド・マン、エイドリアンと俺だ。エイドリアンは、フランクが歌わないところで歌う、一晩に1〜2回のソロを弾く、フランクが割り当てた大して難しくないパートを弾く、それだけの存在だった。フランクはそうやってメンバーのポテンシャルを試してたんだけど。フランクですら「ソロ」とは言わず、「エイドリアン、ここで例の鳥寄せ笛をやってくれ」なんて言ってた。せいぜい1〜2小節だ。そんなんで、正直に言って、俺は彼をそんなに尊敬してなかった。仲は良かったけど、パトリック・オハーンや他のメンバーに対する気持ちとは違ってた。
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そうしたら、エイドリアンはデイヴィッド・ボウイと組んだじゃないか。信じられないような仕事だった。次はトーキング・ヘッズだ。なんてこった。おまけに、ソロの「Desire Caught by the Tail」ときた。どんだけ素晴らしい奴なんだ。俺がどうしようもない馬鹿だっただけなんだ。グリーク・シアターでトーキング・ヘッズが公演した時に、ミッシング・パーソンズも直前に公演したばかりだったんで、訪ねてって夕食を一緒にした。「俺が間違ってた。何も判ってなかったんだ。素晴らしいじゃないか。ソロのコンセプトもすごいよ」。そう言ったが、それっきりだった。それ以来ずっと、また一緒に仕事できればと思ってるけど、やっぱり手遅れだよな。
スティーヴ・ヴァイとアルバムを作りましたね。
- スティーヴとは「Sex and Religion」で一緒に仕事したが、ちょっと問題があって、辞めさせてもらった。今でも仲は良いけどね。彼は仕切りたがるんだよ。俺とは音楽へのアプローチが全く違う。俺は即興を重んじる。彼はあらかじめ組み立てといて、メンバーにいちいち指示する。なんだか工場で働いてるみたいな気分だった。ほとんど全ての小節ごとに喧嘩してたような感じで、ちっともクリエイティヴじゃなかった。
自身の活動も数多くやりつつ、そういった色々なプロジェクトとか、よくやれますね。
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そうかな。いつも誰かが見守っててくれたり助けてくれたりする時代 (普通は子供時代の意味だが、ここではザッパ時代のことを言ってるのかも) はとっくに終わってる。自分のやりたいことは自分でやるのが一番だ。自分で録音して、自分でアルバム・デザインなんかも考えて、自分でネットで売る。誰かが売ってくれるってなったら有難いが、ただ、版権は押さえとかないといけない。
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もう一つ、Magna Cartaレーベルのピート・モーティセリみたいなやりかたもあるかも知れない。前は俺のマネージャーだった。ボジオ・レヴィン・スティーヴンスのアルバムとかを作って、けっこうな額を前金で払ってくれた。そんなに売れてるとは思えないんだけどね。版権は手放してるが、いい相手と組んで、普通じゃできないような、自慢できるアルバムを作れてる。
自分なりの「ニッチ」があるってことですか。
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そうだな。いい言いかただ。俺はすごく批判的なタイプで、自己評価が低いんだよ。自分がどんな人間でどんなことをしてきたかは判ってる。けど、自分はダメだと思ってる、それがないと俺はうまくやれないんだ。だって、「俺は立派だ。成功してる」なんて言ってたら、成功できないだろ。進歩がなくなるじゃないか。「なんでこんなクソなんだ。いい加減にしないとな」って言いながら、先に進むんだ。
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その内にプロセスそのものを楽しめるようになってきて、ウケるかとか売れるかなんて、どうでもよくなってくる。言うなら、食ってければいいわけで、ミュージシャンとしての自分に正直になれるんだ。俺の場合、それなりに受け入れてもらえてるのは、幸運だ。うんざりするし金も食うような仕事をやってても、いずれまた自分に戻れるって思えば、やっていける。ミッシング・パーソンズの時がそうだった。地獄だったね。アルバムを作るのが、もう嫌でしょうがなかった。
インターネットと著作権の関係を、どう思いますか。
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著作権は重要だ。俺はネットの無料配信には、あんまり関わらないようにしてる。プロモーションのために無料配信する奴らは、沢山いるけどね。つまり、俺の場合は、ザッパのおかげで有名になれた。だけど今は、どんなに素晴らしいドラマーであっても、知ってもらわないことには意味がない。だから俺は、自分のサイトで注目株のドラマーを色々と紹介してる。それが俺にできることだから。
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それがウェブの力なんだろうな。今から始めようって奴らにとって特にね。世の中は今でも、マーケティングしてプロモーションして下積みを経て、っていう仕掛けで動いてる。ぽっと出の新人バンドがやりたいことをやるチャンスなんか無い。自分たちの曲を無料で流すか、レコード会社の言うままに曲をやって、運よくヒットすれば、知ってもらえる。そうすれば、いずれはやりたいことをやれるようになるかも知れない。ジレンマだよね。俺にはそれなりのファンやサポーター達がいてくれるのは、本当に有難い。
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今でも昔のマイルス・デイヴィスを聴いては、「有難う、トニー・ウィリアムス (1960年代のマイルス・デイヴィス・バンドのドラマー。超人である)」って思うんだ。だから、高い金を払ってでも、アルバムを買う。彼らや家族がやっていけるようにね。自分が気に入ったものに金を払うのは当然だ。俺だって、これからもファンが気に入って金を払ってくれればと思う。もしも誰も買ってくれなくなったら、続けていけないよ。将来、俺なんか場末のバンドのドラマーにしか見えなくなるような、何かとんでもないドラミングの革命があるかも知れないが、それまではね。
注目株のドラマーを教えてもらえますか。
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リック・グラットンは、あまり知られてないけど、驚異的だ。
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チャド・ワッカーマンは、俺に比べてずいぶん過小評価されてる。ザッパ・バンドは俺が離れてから変わっちまって、フランク以外のメンバーがあまり前面に出なくなった。そのせいだよ。あれだけ驚異的なのに、残念だ。
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デイヴ・ウェックルは、おそろしく成長してる。最初の頃はちょっと技術指向だったけど、今じゃ、技術的に完璧なのに加えて、音楽的にも美しい。
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スティーヴ・スミスやマックス・ワインバーグにも、デイヴ・ウェックルと同じことが言える。マックスなんか、ブルース・スプリングスティーンのバックバンドから、バディ・リッチみたいなジャンプ・ブルースのバンドに移るなんて、誰が思う。ああいうの、嬉しいよな。スティーブは (元ジャーニーで) しこたま稼いでるし、マックスだってもう働く必要なんかない。それが二人とも思い切って、やりたいことを始めてるんだ。
最後に、フランク・ザッパの思い出をお願いします。
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彼はまさにダ・ヴィンチだ。本物の天才で、とんでもなく頭が良くて、才能に満ちあふれてる。俺がいつも言うのは、8つのことでそれぞれずば抜けてて、どれか1つだけでも十分にキャリアになるくらいなんだ。
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ギタリストとして見ると、とてもユニークで、驚くような奏法が一杯だ。やたら癖があるんだが、否応なしに惹きつけられる。あの音、あのフレーズ、あの奏法、誰にも真似できない。他のギタリストにはすごく難しいような変なことも平気でやる。
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バンドリーダーとして見ると、ミュージシャン誰にも敬意を払って、誰をもプロとして扱い、誰にも公平に接して、誰もが組合標準報酬を受け取ってた。エンジニアとはICチップのこととか話せるし、映像関係者とは米国映画テレビ技術者協会のことやレンズの話ができるし、色んなレベルで大量の知識を持ってるんだ。
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作曲家としても、驚異的だ。彼の作るクラシック音楽には、ぎこちなさなんか何もない。残念ながら、彼自身はそういうのはやらずに、アンサンブル・モデルン (Ensemble Modern) とかのオーケストラが演奏してくれてるが。そういう活動に政府の支援なんかもあるんで、彼自身が自分でやって、そういった曲のあるべき姿を示してくれてもよかったんじゃないかって思う。
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作家として見ても、本にしろ、インタビューを活字にしたものにしろ、信じがたいようなものばかりだ。
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彼はロック・スターだ。ロック・スターになれる人間は多くない。例えば、ジョン・マクラフリンはフランクの才能と共通するものを多く持ってる。だが、ちっともロック・スターじゃない。アレンジャー、コンポーザー、バンドリーダー、ギタリスト、才能のある人は一杯いる。だが、フランクは真のロック・スターだ。ロック・アイコンなんだ。
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あのユーモア、あのウィット、彼はコメディアンとしてもやっていけるよ。
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「Thing-Fish」とか「Joe's Garage」とか、劇作家として見ても、ブロードウェイにも持っていけるアイデアを山ほど持ってた。多くは日の目を見なかったけど。オーディオ・ビジュアル関係の技術的な知識も豊富だったし。アンドリュー・ロイド・ウェバー (ブロードウェイ・ミュージカルで現在もっとも高名な作曲家) なんか軽く蹴散らせたと思う。
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彼が国会議事堂に行ったとしたら、議員全員、アホにしか見えなくなるだろうね。実際、そうだけど。彼が政治家になったとしたら、全ての人々を惹きつけただろう。もっとも、実際には彼の活動は、ほとんど「放送禁止」みたいな扱いだったけど。
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ハワード・スターン (アメリカの有名なラジオ・パーソナリティ) の番組でフランクを風刺してる奴がいたけど、何も判っちゃいない。バカ丸出しで、何でもお見通しのフランクとは雲泥の差だった (この段落、原文の一部が欠けていて、うまく訳せない)。
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フランクが亡くなったのは、本当に残念で悲しい。だが、無くなって悲しくないことが一つだけある。「ボジオ、ちょっと来い。思いついたことがあるんだ」って呼ばれた時に感じる、胃袋がキリキリするような恐怖だ。死ぬほど恐ろしかったんだ。ブロードウェイで演劇をやろうとか言い出すのか、俺がとても演奏できないような何かをやらせようとしてるのか、何も判らない。彼といるってことは、自分の生活がなくなるってことだ。それだけ大変な努力が要る。例えば家族とか、自分の世界を持つようになると、彼が言ってくることにはとても応えられなくなる。もしも君が若くって、彼が給料を払ってくれるってなったら、それは素晴らしい幸運だ。俺はフランクの下を離れた後も、彼が声をかけてくれる度に、あの恐怖が襲ってきてたんだよ。俺にできることなのか? どういう意味なんだ? 怖い。嫌な予感がする。なので、それがなくなったのだけは嬉しいんだ (笑)。
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フランクが亡くなった時、俺がもう独立してソロとか作曲とか始めてたのは、ある意味、残念だった。そうじゃなきゃ、一緒に演奏したり、俺の作った曲を聴いてもらったり、まだ彼とやれたはずのことが色々あっただろうから。俺の「Polytown」とかを聴いて、彼がとても誇らしげに言ってくれた。「ボジオ、お前もこんなことが出来るようになったんだな。本当にお前は俺の自慢だ」。滅入った時には、この言葉を思い出す。
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彼が体調を崩した時、彼と俺はストラヴィンスキーについて話し合いを始めてた。俺は初心に戻って、新しくやり直してみたかったんだ。もっと色々と話し合えたはずのことが山ほどあると思う。それに、今は彼との会話をしっかり追えるようになったと思うんだ。若い頃は、「何を言ってるのかさっぱり判らないんですけど」とか言えないまま、彼と会話しないといけないってことが、嫌ってほどあったんだが。
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フランクは音楽ビジネスについて、とても信じたくないような話をあれこれ教えてくれた。どれも本当だった。なので今は、アルバムはほんの少ししか作らない。少しの金で中くらいの生活をしてる。それでやっていけるのは幸せだ。
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