デイヴィッド・ボウイ+トニー・ヴィスコンティ、2001年のインタビュー (まとめ)

15 June 2015  |  Tags: David Bowie, Tony Visconti

2013/3/30から紹介した 「トニー・ヴィスコンティ、デイヴィッド・ボウイのベルリン三部作を語る」「デイヴィッド・ボウイ、ベルリン三部作を語る」 の全体を、正しい順序で一つにまとめた。イギリス「Uncut」誌の2001年3月の記事。

→ Uncut | Uncut Interviews David Bowie and Tony Visconti on Berlin


デイヴィッド・ボウイ

なぜベルリンに移ったんですか。

  • ロサンゼルスの生活で、もうどうしようもなくダメになっていく感じがしてたんだ。ドラッグに手を出してボロボロになってたし、何か手を打たないといけなかった。ベルリンって街には、何か聖域みたいな感じがあって、ずっと興味を持ってた。誰にも注目されずに動き回れる、世界でも数少ない場所だ。彼らはイギリスのロックシンガーなんかに興味ないんだ。私は無一文になってて、安く生活できる場所だったし。

  • もう十代の頃からずっと、ドイツ表現主義 (20世紀初頭の芸術運動) のあの不安にかられるような感情表現に魅了されてた。画家にも映画作家にもだ。ブリュッケ (画家の一派)、マックス・ラインハルト (舞台演出家)、ブレヒト (劇作家)、映画の「Metropolis (メトロポリス)」や「Caligari (カリガリ博士)」、ベルリンは彼らの本拠地なんだ。雰囲気ではなく出来事で人生を写し出そうとする芸術で、それがまさに自分の進むべき方向だって感じてた。そして、1974年、クラフトワークの「Autobahn」がリリースされて、自分の関心の方向がヨーロッパに揺り戻されたんだ。自分がもっと追求しないといけないのは、この電子楽器の優位性だ、そう確信したんだよ。

  • ベルリン三部作へのクラフトワークの影響について、色々と言われてるけど、いい加減な話ばかりだ。クラフトワークの音楽へのアプローチは、私のやりかたとはほとんど接点がない。彼らのは機械的でロボット的で、厳密に寸法を合わせて組み立ててくようなものだ。ミニマリズムのパロディって言ってもいい。フローリアンとラルフはスタジオに入る前に、もう全て仕上げ終わってるみたいに感じる。私はもっと表現主義的で、主役、自分だけれども、は、その頃に流行ってた言葉で「ツァイトガイスト」(ドイツ語で「時代の潮流」みたいな意味) に身を委ねて、成り行きに任せる。音楽はスタジオの中で、自然に出来上がっていくんだ。

  • 素材も対極にある。クラフトワークのパーカッションは、電子的に作り出してて、テンポも厳密で、ノリがない。自分たちのは、デニス・デイヴィスっていうパワフルでエモーショナルなドラマーだ。人間だってだけじゃなくて、格別のノリがある。クラフトワークは、四角四面のビートに人工的なサウンドを載せてくる。私たちはR&Bのバンドなんだ。「Station to Station」から後、R&Bと電子音楽の融合が自分の目標になってた。ブライアン・イーノのインタビューを読んでたら、それで私と仕事してみたくなったんだそうだよ。

  • 見当違いな指摘ってことじゃ、「Station to Station」はクラフトワークの「Trans-Europe Express」へのオマージュなんじゃないか、なんてのもある。「Station」のほうが先なんだよ。これは1976年、彼らのは1977年だからね。だいたい、このタイトルは「Stations of the Cross」から来てて、鉄道の駅とは何の関係もない。

  • 私がクラフトワークに熱狂したのは、彼らがアメリカ音楽のありきたりで詰まらないコード進行から唯一人だけ訣別していたこと、彼らの音楽がヨーロッパの感性を心底から信奉していたことだ。それがすごく重要だった。

  • ちなみに、「Low」を作る時に最初に考えていたギタリストは、ノイのミヒャエル・ディンガーだった (ミヒャエル・ローターの間違いでは?)。ノイは熱くて、クラフトワークとは対極にあったバンドだよな。それで、レコーディングを始めた時にフランスから電話したんだけど、極めて慇懃で外交辞令な言いかたで断られた。

ベルリン三部作はパンクへのアンチテーゼという見かたがあるようですが。

  • 私の脳みそがヨレヨレだったせいか、イギリスのパンクの衝撃がアメリカには届いてなかったせいか、判らないけど、私が気づいた時には、もう過ぎ去ってた。ベルリンで見たパンク・バンドの内、ほんの幾つかには感心したけど、1969年にとっくにイギー・ポップがやってたことみたいだった。セックス・ピストルズから始まった大騒ぎを身近で体験できなかったのは、ああいう娯楽が当時の私の鬱な気分を良くするには他の何よりも効いただろうな、ってことでは本当に残念だったけど。

  • 少なくともジョニー・ロットンとシド・ヴィシャスには、初期の頃、イギーとツアーしてた時に会ったことがある。ジョニーはジム (イギー・ポップの本名、ジェームズ・ニューウェル・オスターバーグ・ジュニアのこと。ちなみに、「イギー」はイグアナから来ている) を崇拝してた。シドは、会った時はもうほとんど緊張病 (統合失調症の一種) で、悪い印象しか持ってない。若すぎて、何か助けが要ったんだろう。

  • 楽曲に関する限りは、「Low」も含む三部作は「Station to Station」のタイトル曲の続編だ。私のアルバムはどれも、その中の一曲が、後に続くアルバムの前触れになってるんだ。自分自身、びっくりしてる。

クラフトワークとレコーディングする計画があったという噂は本当ですか。

  • いや、全く違う。ほんの何回か顔を合わせたことはあるけど、それだけだ。

あなたはアウトバーンを走っている間中ずっとクラフトワークの「Autobahn」を聴いていた、とラルフ・ヒュッター (クラフトワークのリーダー) が言っていましたが。

  • 1975年のロサンゼルスの道路では確かにそうだったけど、ベルリンのアウトバーンでは、一言で答えるなら、ノー、だ。

クラスター、ノイ、タンジェリン・ドリームなど、ドイツのロック (原文は「Krautrock」) のバンドとコラボレーションを話し合ったり計画したことはありますか。

  • 全く無い。エドガー・フローゼ (タンジェリン・ドリームのリーダー) と彼の奥さんとは顔を合わせたことがあるけど、他の人たちには会ったことはない。ベルリンにいた頃は、スタジオで何をやるかしか頭になくて、デュッセルドルフに行ってみようって気にもならなかった。

  • 私がイーノにデュッセルドルフ・サウンドを紹介したら、彼はすっかりハマっちゃって、コニー・プランク (ドイツの著名なプロデューサー兼エンジニア) なんかと一緒に、彼らの何人かとアルバムを作ったりするようになった (「Cluster and Eno」とか)。ちなみに、イギー・ポップからディーヴォを紹介されたんで、イーノには彼らも紹介したよ。

「Low」はもっとも内省的なアルバムという評価ですが。

  • 当時は最悪だった。身体も精神も限界だった。自分が正気かどうか、本気で疑ってた。だが、「Low」の絶望のベール越しに、楽観につながる感触がつかめたんだ。快方に向けてもがく自分の声が聞こえたんだ。

  • ベルリンでは何年かぶりに、生きる喜び、解放感、癒しを実感できた。パリより8倍も大きな都市で、簡単に「迷子」になって、自分自身を「発見」できる街なんだ。

アルバムを録音したシャトー・デルヴィーユ (Chateau d'Herouville) は幽霊屋敷という話がありますが、アルバムの雰囲気にも影響してますか。

  • たしかに怪しい場所だった。ある寝室を嫌がったのは本当だが、それはやたら寒かったからだ。けれども、あの雰囲気はアルバムには何も影響してない。スタジオそのものは楽しくて、わさわさしてて、居心地がよかったよ。

ロバート・フリップも参加したが、クレジットされてないだけだという噂がありますが。

  • 参加してない。

歌詞の違う別テイクがあるという噂もありますが。

  • そんなのがあるとしたら、曲の感じを確かめるために意味のない言葉を並べて歌うことがよくあるんで、それだろう。トニー (ヴィスコンティ) が消してくれてるはずだけど。

「Breaking Glass」の「don't look at the carpet」という歌詞は、絨毯の模様によく隠されているシンボルのことですか。

  • そうだね。生命の木と霊魂を呼び出す呪文の両方の意味がある。

「Weeping Wall」、「Subterraneans」、「Some Are」は映画「The Man Who Fell to Earth」のサウンドトラックになるはずだったのを持ち越した、というのは本当ですか。

  • 持ち越したのは、それを逆転させて使った「Subterraneans」のベースパートだけだ。それ以外は全て新しく書き起こした。

「"Heroes"」はより前向きなアルバムという評価ですが。

  • 「Low」よりラウドでハードな出来だ。エネルギーももっと注ぎ込んだ。だが、歌詞ははるかに精神病的だ。その頃はベルリンに住み着いていて、気分は上々だった。高揚してたって言ってもいい。だが、あの歌詞はどこか無意識の片隅から出てきたんだ。まだ心の大掃除が済んでなかったんだろうね。

すごく速いペースで出来上がったようですが。

  • 何曲かは1テイクで作れた。残りは2テイクか、もうちょっとかかったと思う。素晴らしいミュージシャンばかりで、演奏には間違いがないんで、ノリを重視したんだ。

  • 自分のヴォーカルはほとんど1テイクだった。何曲かは歌いながら作っていった。「Joe the Lion」の場合、ヘッドフォンをつけてマイクの前に立ち、節を聞いて、思いついたキーワードを幾つか書き留め、それで録音した。次のセクションでも、同じことを繰り返した。イギー・ポップと仕事する内に身につけたやりかただ。マンネリな歌詞を打ち破るには実に効果的なやりかただよ。

「"Heroes"」のアルバム・ジャケットは、ヴァルター・グラマッテの自画像、エーリッヒ・ヘッケルの「Roquairol」、どちらから来ているのでしょうか (二人ともドイツ表現主義の画家)。2つの説があるようですが。それと、ヘッケルの絵画はイギーの「The Idiot」のアルバム・ジャケットにも結びついていますか。

  • ヘッケルの「Roquairol」、それと彼の1910年頃の「Young Man」という絵から、画家としての私はものすごく大きな影響を受けた。グラマッテは好きになれない。どうも中身がなくて、薄っぺらいんだよ。あのジャケットはヘッケルだ。

ブリュッケ派 (ドイツ表現主義の一派。ヘッケルも一員) と関係ありますか。

  • さあねぇ。

イーノが言うには、レコーディングの間中ずっと、二人でピーター・クックとダドリー・ムーア (イギリスのお笑いコンビ) の口まねをしてて、笑いっぱなしだったそうですが。それと、デイヴィッドは一日に生卵一つで生きてた、と言ってますが。

  • 二人で笑い合ってたのは確かだけど、「ずっと」ってのはちょっと大げさだな。けど、二人でピーターとダドリーの口まねをやるのは、とてもうまく行ったよ。ロンドンのある交差点でジョン・ケージの「prepared layer」について延々と語り合う、みたいなね。ほんと、バカみたいだった。

  • ドラッグを断って、食事はしっかり取るようになってたよ。一日の最初か最後に生卵を2つくらい、日中は肉や野菜をたくさん食べてた。ブライアン (イーノ) は毎朝、ニンニクを大量に入れたお湯を飲んでてね。一緒のマイクで歌うのは勘弁して欲しかったな。

「"Heroes"」の歌詞は、(a) ベルリンの壁にいたカップル、(b) ベルリンの壁の横でキスしていたトニー・ヴィスコンティとアントニア・マース (バックボーカルで参加していた現地の女性歌手)、(c) オットー・ミュラーの絵画、(d) 全て、(e) その他、のどれでしょうか。

  • トニーに聞いてくれ。

「Blackout」は、あなたがベルリンで気を失ったこと、ニューヨークの1977年の大停電、どっちのことでしょうか。

  • 停電のほうだ。ニューヨークのって断言はできないけど、私の頭ん中にそういうイメージがこびり付いてたんだ。

「V-2 Schneider」はクラフトワークのフローリアン・シュナイダーへのトリビュートですか。

  • もちろんだ。

「Lodger」は評価が二分してますが。

  • ミキシングに十分な手間をかけなかったってのは、トニーも私も同じ意見だ。私は個人的な事情で壊れてたし、トニーは「Low」や「"Heroes"」ほど簡単に進まなかったんで、気持ちが冷めたのかも知れない。だけど、それでも「Lodger」には、大切なアイデアが沢山詰まってる。もっと時間があればよかったんだけど。

電子音楽から離れたのは意図的なものですか。後追いのシンセ・バンドが「Low」と「"Heroes"」の猿まねをせっせと始めてたのを出し抜くためにとか。

  • 「Low」や「"Heroes"」と違うって印象を持つのは、インストゥルメンタルの曲がないからなんじゃないかな。ブライアン・イーノと私は、それまで以上に「ふざけたアート」(art pranks) をやってた。もっとも、バンド、特にカルロス・アロマーはあんまりのってこなかったけどね。

「All the Young Dudes」のテープを逆回転させて「Move On」に使ったのは、たまたまですか。

  • たまたまってより、見つけたってのが正しいな。間違ってテープ・リールを逆にセットしたら、出てきたメロディが気に入った。なので、それに合うように何回か演奏して、捨てがたいのを幾つかピックアップしたってわけだ。元の「All the Young Dudes」を無にするつもりはなかったけど、いい試みだった。イギーに作った曲と同じタイトルだが、そっちは仮のだったんで、こっちに使ったんだ。

「Red Money」の「project cancelled」って歌詞は、何か意味があるんですか。

  • いや、何も。ただの気まぐれだ。

「cricket menace」(コオロギの脅威) って、何ですか。

  • イーノがドラムマシンと小さなシンセで作り出したチャカチャカいう音だ。「African Nightflight」で使ってる。

ニューヨークに移ったのは、ベルリンは役目を終えたってことですか。

  • ベルリンを離れたつもりはなくて、ただの成り行きだ。私は気分も良くなってきてたんだろうな。人生で最良の、何ものにも代えがたい、かけがえのない時を過ごしてた。ココ (ボウイのアシスタント) とジム (イギー) と一緒にだ。あの解放感は言葉にできない。

  • ある時は、3人で車に飛び乗って、目についた小さな村で途中下車しながら、東ドイツを狂ったように走り抜けた挙句に、「黒い森」地方 (ベルリンからは最も遠いドイツ南部) まで行く。冬の日には、ヴァンゼー (ベルリン近郊の湖で保養地) で長いランチを取ったりする。木立に囲まれていて、1920年代のベルリンの雰囲気を今でも醸し出してる場所だ。夜になれば、クロイツブルグ (ベルリンの一地域) にある「Exile」ってレストランで、知識人やビートニク達と時を過ごす。その店の裏にはビリヤード台を置いた喫煙室があって、人が絶えず出入りしてる以外は、居間にいる気分だった。

  • ある時は、西ベルリンの中心部にある「カーデーヴェー」(KaDeWe) っていう巨大な百貨店にショッピングに行く。信じられないくらい巨大な食品売り場があって、かつて飢餓にあえいでいた国か、とにかく食い意地のはった国か、ってしか思えないくらいだ。そこで時々ちょっと高級っぽいもの、例えばチョコレートとかキャビアとか買い込む。一度、私たちが外出してる間にジムが冷蔵庫をあさって、その朝に頑張って買い込んでおいたものを全て食っちまったんだ。あの時ばかりは、ココと私は真剣に怒ったね。まだまだ幾らでも喋れるよ。

  • ベルリンを離れるつもりはなかったんだ。ジムはもっと長くいることにした。現地の女性と仲良くなってたんでね。私は「Elephant Man」の舞台に立つことになって、しばらくアメリカに行かざるをえなくなった。それでベルリンは終わったんだ。

イギーの「The Idiot」の制作中に、ジョルジオ・モロダーに会ってますが、何か共演する計画とかあったんですか。

  • いや、全然。

「Lust for Life」についてイギーが、デイヴィッドがTVを観ながらウクレレで作った、リズムはモールス信号から持ってきた、って言ってますが。

  • その通り。

「Stage」ライブの映像がリリースされないのは、なぜですか。

  • 映像が気に入らないってだけのことだ。いつかはリリースするかも知れない。

ベルリン三部作は、ポストパンク/アンビエント/エレクトロニカ/ワールドミュージックの礎石とみなされてますね。

  • ちっとも驚かないよ。

三部作の制作中に、重要性は認識していましたか?

  • もちろんだ。理由はどうあれ、経緯はどうあれ、トニーとブライアンと私は、パワフルで苦悩に満ちた、だが、時には幸せにあふれた音楽を作り出したんだ。誰もがありえないって判ってる未来ってのを待ち望むような感覚を具現したってことでは、当時の他のどれとも違ってた。私たち3人のベストな仕事って言っていい。孤高だ。私の全てがあの3枚の中にある。私のDNAなんだ。

トニー・ヴィスコンティ

ベルリン三部作はパンクへのアンチテーゼという見かたがあるようですが。

  • デイヴィッドはベルリンの生活が好きだったんだと思うよ。当時 (1976〜1979年)、世界中のどこにも、あんなファンタスティックな場所は他になかった。東西を分断する軍事地帯のぞくぞくするような緊迫感、ぎらぎらした奇怪なナイトライフ、極端に伝統的なレストラン、あちこちに残るヒトラーの遺物、ベルリンの壁から450メートル (500ヤード) にあるスタジオ。まるで「The Prisoner」(邦題は「プリズナー No.6」) の撮影セットの中にいるみたいだった。

「Low」はもっとも内省的なアルバムという評価ですが。

  • 作るのは難しくなかったが、デイヴィッドにとっては難しい時期だった。ことさら強がらなかったのは、さすがだ。聞けば、彼が「Low (低調)」だったのが判るだろ。

アルバムを録音したシャトー・デルヴィーユ (Chateau d'Herouville) は幽霊屋敷という話がありますが。

  • たしかに何か怪しい霊気があった。最初の晩、主寝室をのぞいたデイヴィッドは、「この部屋じゃ寝られない」って言い出して、隣の部屋で寝ることにした。主寝室は特に暗くて冷える一角にあって、窓が光を吸い込んでくみたいに見えた。私が、その部屋が気に入ったし、自分を試したかったんで、その部屋で寝ることにしたんだ。フレデリック・ショパンやジョルジュ・サンドの亡霊がって、何かフランス語で脅かしてくるのか?って思ってね。イーノは、毎朝早く、誰かが肩をゆするんで目が覚めるんだけど、目を開けると誰もいないんだ、って言い張ってたよ。

ロバート・フリップも参加したが、クレジットされてないだけだという噂がありますが。

  • 本当に参加してない。

歌詞の違う別テイクがあるという噂もありますが。

  • 「Always Crashing in the Same Car」には元々は3番があって、デイヴィッドはそれをボブ・ディラン風に歌った。冗談半分だったんだけど、ディランが実際にオートバイ事故にあってるんで、悪趣味だなってことになった。それで、デイヴィッドに頼まれて、その部分を消したんだ。他にはないはずだ。

デニス・デイヴィスは、UFOを見たことで陸軍から追放されたって話を、「Low」のセッション中にしてたそうですが。

  • 彼は生けるパーティみたいな奴でね。カメラの前でパントマイムをやれば、もう爆笑もんだし。で、彼が言うには、極秘の格納庫の中で墜落したUFOを見つけて、歩哨に、見たことを絶対に漏らしてはならない、って警告されたんだそうだ。本当かどうかなんて知らないよ。とにかくやたら面白かった、フランスのTV番組は詰まらん。

「Low」にはピーターとポールってクレジットがありますが、奥さんのメアリー (ホプキン。当時、ヴィスコンティと結婚していた) と関係ありますか。

  • メアリーが子供を連れて半月くらい訪ねてきてて、ブライアン (イーノ) と一緒に「Sound and Vision」にバックコーラスを付けたんだ (「ピーターとポール」はイーノのこと。1960年代に人気だったピーター・ポール&マリーにかけている)。

ベルリン三部作のプロデューサーはイーノだって勘違いしてる人が今でもいますが。

  • 知ってる。デイヴィッドと私の共同プロデュースだって、ちゃんとクレジットしてあるのにね。ブライアンはスタジオ入りする前に、デイヴィッドと2人で曲作りを進めてたけど、アルバム作りにかかわった記憶はない。3枚のアルバムどれの時も、彼のパートの録音で一緒にいたのは、だいたい3週間くらいかな。ヴォーカルの収録にもオーバーダブやミキシングにも、全く立ち会ってない。

「Low」は希望に満ちたアルバムだと思っているのですが。

  • 「Warszawa」は精神を高揚させてくれる曲だ。何日か調子の悪い日もあったけど、「Low」の製作は本当に楽しかった。特に、色んなとんでもないアイデアがどんどん形を成していくのがね。憶えてるのは、録音が終わって何週間か後、アルバム全体のラフミックスを作って、そのカセットテープをデイヴィッドに渡した。そうしたら彼は、「アルバムが出来た。アルバムが出来た」って有頂天になって、カセットを頭の上で振り回しながらコントロールルームを出て行ったんだ。どういうことかっていうと、私たち3人 (ボウイとイーノとヴィスコンティ) は、アルバムが完成してリリースできるかどうか保証しない、って約束で始めたんだよ。デイヴィッドに、もしもこの実験がうまく行かなくて何ヶ月も無駄になっても大丈夫かな?、って聞かれたが、フランスの古城で8月を過ごして、天気も素晴らしかったじゃないか、って答えたよ。

あなたが持ち込んだEventideハーモナイザーは、どんな効果がありましたか。

  • 強烈な音になるね、特にドラムスが。他のプロデューサーが知るのも時間の問題だと思ってたが、アルバムが出た当時はまだほとんど知られてなかった。大勢のプロデューサーが、あれは何だ、って聞いてきたんだが、教えなかったよ。代わりに、何だと思う?、って聞き返したら、すごい答えが戻ってきて、かえって使えそうだった。例えば、ドラムスのトラックに3回コンプレッサーをかけて、そしてテープの再生速度を落として、とか。ハーモナイザーはボーカルにも、特にB面 (「Warszawa」からの4曲) で使った。それからだな、「Low」もどきの音をあちこちで聞くようになったのは。

「Low」のレコーディングは散々だったって言ったそうですが。

  • 8月はヨーロッパは休暇のシーズンなんだよね。スタジオも例外じゃない。音がどんど変になっていくんで、イギリス人のアシスタントに聞いたら、テクニシャンが、私たちが来る1週間前にマルチトラックレコーダーを調整して、そのまま休暇に行ってしまったって言うんだ。そのアシスタントは、英語とフランス語が判るってことで私たちのために雇われてたんで、機械のことは何も判らない。それで、毎朝2人でコントロールルームに入って、マニュアルと首っ引きで、うまく行きますようにって祈りながら、機械を調整してたんだ。

  • 料理はひどかったな。最初の3日間はウサギの肉だけで、野菜は何も無しだ。腹が減ってたまらなかったんで、サラダか何かも欲しいって頼んだら、レタスを丸のまま6個、テーブルに放って、ビネガーとオイルの瓶を付けてくれたよ。それと、もっと大量のウサギ肉だ。飢え死にしそうになって、彼らが残してったチーズとかを食べたら、デイヴィッドと私は食中毒になってしまった。フランス人の医者は私を診てもくれない。ベッドから起きて、デイヴィッドの次に私も診てくれって言ったら、「君は大丈夫だよ。歩けるじゃないか」って。結局、デイヴィッドの薬を二人で分けた。

  • フランス人の女性がアシスタントとして、レコーディングの面倒をみてくれるはずだったんだけど、やっぱりも何も持ってきてくれない。午前1時って、ロックなら普通にレコーディングしてる時間だろ。デイヴィッドがスタジオのオーナーを起こして、実に丁寧な言いかたで、「お休みのところに申し訳ないが、スタジオのオーナーですよね。パンとチーズとワインを持ってきて頂けないでしょうか。今すぐにだ!」って言ったのを憶えてるよ。

リッキー・ガーディナーは、どうでしたか。

  • 全く知らなかったんだが、特殊効果について、とんでもなく知識を持ってる。恐れ入った。

「"Heroes"」はより前向きなアルバムという評価ですが。

  • そうだね。調子が良くなってきてたし、スタジオの運営ってことじゃ、ドイツ人はフランス人よりはるかにマシだ。

すごく速いペースで出来上がったようですが。

  • 「Scary Monsters」までは、どのアルバムもデモを作るところから始めてたけど、録音し直さなくてもデモをちょっと編集するだけで出来上がりだってのが、だんだん判ってきたんだ。24トラックのテープにそのままコピーすればいいだけの、素晴らしい出来栄えの部分もあったりする。さすがに1テイクってことはないが、25テイクとか必要ない。せいぜい5テイクで済む。

録音に使ったハンザ・スタジオ2が非常に気に入ったそうですが。

  • 音響が美しかった。機材はどれも年代物で、よく手入れされてた。ベルリンの壁のそばで、エキゾチックな雰囲気だったね。仕事の後には、やることや行くところや人と会う機会が色々あった。才能があってクリエイティブなミュージシャンに囲まれて、幸運だったんだよ。後になって、U2が、私たちが何を作り出したのか、ハンザを見に行ったけど、何も見つけられなかったって聞いた。彼らはあの場所が好きになれなかったんだそうだ。

ロバート・フリップは日帰りしたんですか。

  • 日帰りしたってことになってるようだけど、本当は2日間いた。彼は驚異的だね。フリッパートロニクスをイーノが持ってたEMSシンセサイザー (VCS3) に繋いだら、もう震撼ものだ。「"Heroes"」の曲で、彼の録音は長くはかからなかった。まず1回演奏して、それを修飾したいんで、もう3トラックって言ってきた。それまで誰も聴いたことのない音だった。あのギターは息を呑むだろ。

  • ミュージシャンとして卓越してるだけじゃなくて、彼はすごく面白い人物だった。ベルリンに一泊するかどうかってのを、婉曲に言うんだ。「余は今宵ここに友好のあかしの剣を振り下ろさん」。それを強烈なサマセット訛り (サマセットはフリップの故郷の近く) で言うもんだから、もう笑いが止まらなかったよ。

「"Heroes"」の歌詞は、(a) ベルリンの壁にいたカップル、(b) ベルリンの壁の横でキスしていたトニー・ヴィスコンティとアントニア・マース、(c) オットー・ミュラーの絵画、(d) 全て、のどれでしょうか。

  • アントニアとキスしたのを、デイヴィッドが気を遣って、黙っててくれたんだ。私は結婚してたからね。彼は部屋に一人だけ残って歌詞を考えてた。アントニアは美しくて、素晴らしい歌手だった。ベルリンのクラブでジャズを歌ってたところを見つけたんだ。

「Lodger」は評価が二分してますが。

  • スタジオがひどかったんで、少しでも良い音になればな、とは思ってた。中身は素晴らしいよ。音は悪いが、何度も何度も聴いてる。

電子音楽から離れたのは意図的なものですか。後追いのシンセ・バンドが「Low」と「"Heroes"」の猿まねをせっせと始めてたのを出し抜くためにとか。

  • そうだろうと思う。

「計画された偶然」方式ってことで、例えばエイドリアン・ブリューに、よく判らないトラックの上に何でも思いついた演奏をとにかく重ねてもらう、とかやりましたね。

  • カオス (混沌) を目指してたんだ。ブライアン (イーノ) は、例えば黒板に好きなコードを8つ書いて、リズムセクションに「何かファンキーなのをやってくれ」って言う、そして、コードをランダムに指差して、バンドがそれに従うとか、そんな妙な実験を色々やってた。これはあんまりウケがよくなかったけどね。「Yassassin」はレゲエとトルコ音楽を組み合わせようとしたものだし、「Fantastic Voyage」と「Boys Keep Swinging」の2曲は、和声と構成が全く一緒だ。もう1曲あったんだけど、それは没になった。エイドリアンはどんな変てこな要求にも応えられる王者だったね。

「cricket menace」って、何ですか。

  • 「African Nightflight」に入ってるチャカチャカした音のことだ。あれはデイヴィッドが持ってたRoland beatboxをものすごい高速に設定して作った。

「Boys Keep Swinging」はイーノのOblique Strategiesで作ったんですか (Oblique Strategiesについては 2012/4/22 の記事を見て頂きたい)。「楽器を替えてみよ」とか。

  • たぶんね。ギタリストのカルロスはドラムスも上手いんだ。

「Red Money」の「project cancelled」って歌詞は、何か意味があるんですか。

  • 知らないな。デイヴィッドに聞いてくれ。

ボウイ/イーノ/ヴィスコンティの三頭体制がうまく行った秘訣は何ですか。

  • 商売上の束縛を何も受けないことに、三人とも慣れてたからだろうと思う。レコード会社のことも評論家のことも何も全く気にしなかった。スタジオのミュージシャンの気持ちをほぐして、根本から創造的な方向に持っていくのは難しいが、我々は逆だった。演奏技術もあったしね。何かを仕上げるのに無理やり頑張ったりしなかった。だから、仕上がったんだ。デイヴィッドとブライアンにとって、私は物事がうまく行ってるかどうかのバロメーターだった。私はニューヨークのブルックリンの出身で、イギリス出身の彼らとは文化的なバックグラウンドが全く違う。だが、創造性や芸術性ってことじゃ、少しも引けを取らない。

ベルリン三部作は、ポストパンク/アンビエント/エレクトロニカ/ワールドミュージックの礎石とみなされてますね。

  • 「Low」がそういう一つの基準点になるアルバムだってのは、リリースしてから気づいた。「"Heroes"」はその改良バージョンだ。「Lodger」は「Low」と「"Heroes"」への、創造的な方向からのカウンターだ。3枚とも驚異的だよ。順に聴いていくと、その度に新しい発見をしたり、あの素晴らしい瞬間、圧倒的な何かが起きる瞬間のことを思い出したりする。特に「Joe the Lion」、あの曲には全てが詰まってる。アンビエント・ミュージックの可能性が少しずつ見えてきた時でもある。録音テープがそのまま譜面になるって言っていい。

  • 「Scary Monsters」は「三部作」の一つだとは思われてないが、三部作を作る内から学んだことの集大成、有終の美だ。ブライアンは参加してないが、影響は明らかだよ。

どのアルバムが好きですか。

  • その時の気分にもよるが、たぶん「"Heroes"」かな。



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