トニー・ヴィスコンティ、駆け出し時代を語る (キャリアを語る (8))

12 January 2019  |  Tags: Tony Visconti, Procol Harum

プロデューサーのトニー・ヴィスコンティが、聴衆を前にしたインタビューで、これまでのキャリアを振り返って色々と語っている。「Red Bull Music Academy」が2011年にマドリッドで主催したもの。以前に紹介した 「ボウイのベルリン三部作を語る」 とかぶる箇所もあるが、できるだけ重ならないように紹介するつもり。

→ Red Bull Music Academy | Tony Visconti


ニューヨーク (ブルックリン) からイギリスに移り住んだ頃のことを聞かせて頂けますか。

  • ニューヨークにいた頃からずっと、音楽業界に関わりたいって思ってた。だけどニューヨークって、そうするには世界で最も難しい場所だろうと思う。セッションに手を出したりはしたけど、ちゃんとしたブロデュースを手がけたことはなかった。

  • ある作曲家と仕事してた時、レコード会社の休憩コーナーで、自分の未来のボスに初めて出会った。彼が (イギリス風の発音で)「こんにちは」って話しかけてきたんで、「イギリス人ですね」って聞き返したら、そうだって答えだった。「イギリスの人に会うのは初めてです」。「ここで何をしてるのかな?」。「会社専属のプロデューサーで、デモを作ってるところです」。そうしたら、「君はアメリカ人の私か。私は会社のイギリスでの専属プロデューサーなんだ」。デニー・コーデルって名前だった。「何か聴かせてあげようか」。そう言って、ある一室で聴かせてくれたのが、プロコル・ハルムの「A Whiter Shade of Pale (邦題:青い影)」だったんだ。ちょうど完成したばかりで、まだリリース前だった。もう心底から仰天したよ。イギリスじゃこんなにも美しい、こんなにも心のこもった音楽をやってるんだ、ってね。ザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズくらいは知ってて、素晴らしいなと思ってたわけだけど。

  • そんな成り行きで、その日は彼のレコーディングを手伝うことになった。彼は何の準備もないままニューヨークに来ていて、とりあえずクラーク・ケリーのトランペットを録音してた。「セッションは? 譜面は?」って聞いたら、「ないよ。私がデモを聴かせて、それにアレンジを付けてもらえることになってる」。「あのー、ここはニューヨークなんで、そんなことしたら、思ってる3倍は金がかかりますよ」。それでデモを聴かせてもらったら、ホーンとトランペットのパートはすでに出来てた。そこで、私のほうで急いで譜面を起こして、コード進行を書いて、ドラムスの入るところ、止めるところなんかも付け加えた。8人編成だったかな。彼は、私は名前を知ってるだけで会ったこともないようなトップのセッション・ミュージシャンたちを集めてた。そこで、その譜面を急いでコピーして、彼らとクラーク・テリー、偉大なトランペッターだ、に渡したら、彼らはそれをざっと見て、試し弾きして、そして、3回のテイクで仕上げてくれた。私が「イギリスでは、どんなふうですか」って聞いたら、「そうだなぁ、スタジオにてれてれ入ってきて、ヤクを吸って景気づけして、それから...」。「いやいやいや、ニューヨークじゃ、ありえないです」。彼はこの1曲に8時間か10時間くらいかかるだろうって思ってたんだ。

  • 彼はたいそう感心してくれて、「ロンドンで私と働いてみる気はないかな」って言ってきた。私は夢じゃないかと思って、自分をつねったよ。当時、アメリカのポップ・ミュージックはどうしようもなく詰まらなくて、本当に面白いのはイギリスから来るばかりだったんだ。なので、このチャンスに飛びついて、イギリスのやり方を学んで来たいって上司に頼み込んだ。その時は半年だけのつもりだった。

  • 現地では、昼も夜も働いたな。彼は私を信頼しきって、プロコル・ハルムのアルバム作りを私に任せて、自分は別の仕事をしたりしてた。そんな経験はほとんどなかったけど、彼をがっかりさせるわけにはいかなかった。笑われたり、からかわれたりしたよ。ブルックリンと言えば、治安の悪さで有名だったしね。だけど、最初の1週間で乗り切った。その1週間、ナイトクラブに入ったら、ジミ・ヘンドリックスが目の前たった1mで演奏したんだ。暗闇の中からステージに現れて、ギターを手に取って、いきなりジャムセッションだよ。「Sgt. Pepper's」のアルバムを、リリース3ヶ月前に聴かせてもらえたりもした。真夜中にデニーのアパートから、誰かがコートに隠して持ち出してきて、部屋のブラインドを閉めて、ドラッグを一発やって、そしてザ・ビートルズを聴いたんだ。全て、最初の1週間でだ。もう毎日、自分をつねっては、これは現実なのか、確かめてた。半年なんかあっという間で、帰りたくなくて、結局、22年間だ (笑)。

いつ移ったんですか。

  • 1967年で、22歳になったばかりだった。そして、1989年までいた。

今日のおまけ。この曲、ギターはロバート・フリップだって、ピアノとストリングスを 担当したエディ・ジョブスンが言っている。

→ YouTube | Bryan Ferry - As the World Turns

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